Letter 2 : 好きになれない「推す」という言葉

好きになれない「推す」という言葉

僕がギターをはじめたのは、ギターという楽器に興味があったからではなく、歌をつくってみたいと思ったからです。恥ずかしながら、自分という存在がこの場所にいたということを、何かの形で残しておきたいなと、そんなことを考えた時に、その一つのカタチが歌でした。

ただ最近、歌づくりをしているときに、「歌詞を考える」というところでよく躓きます。実際に作曲を始めてみる前は、歌詞を考えるという部分は、一番スムーズにできるだろうと思っていたので、驚きました。

どうして、歌詞で苦戦するのかというと、「自分は音楽にのせて、誰に、何を伝えたいんだろう」という疑問にぶつかり、迷路にはまってしまうからです。歌を作りたいと思っていたくせに、伝えたいこともロクにないのか、と自分でも思いました。伝えたいことが何もないというよりも、それをうまく言葉にして整理ができないとか、ありふれた内容に落ち着いてしまって物足りないとか、そんな状態です。

そんな風に迷路をさまよったおかげで、自分が言いたいことや伝えたいことのタネのようなものを、いくつか見付けることができました。そのうちのひとつが、「推すな」ということです。

最近、やたらと耳にする「推す」という言葉。僕はこの言葉がすこし苦手です。というか、かなり嫌いです。特に、「推し活」という言葉とそれが意味する行動がとても嫌いです。なぜかといえば、この言葉にはくらい影が付きまとっているように感じるからです。

推し活は、その言葉が生まれる以前に若い人たちが日常的にやっていたことと、行動の点では似ています。例えば、好きな作品や人物、キャラクターなどのグッズを購入するとか、そのイベントに参加するとか、そういう行為は、ずっと昔からあったことだと思います。ただ、その行為の意味はずいぶん違っていると僕には思えます。以前はもっと「自分のために」、そうした行動をしていたと思うのです。好きな作品のグッズも、自分の目に触れる場所に置くなどして、自分を楽しませるために購入していたはずだし、自分がその人物を一目見たいからイベントに参加していたでしょう。

でも、「推し活」は少し違います。もちろん、自分を満たすためという一面があるのは変わらないですが、「推しのために」という一面が加わりました。僕は自分では推しのためという発想を持とうとは思いませんが、なんとなく、そうした発想に至る背景は理解できる気がします。思うに、推しという存在に自己投影することによって、推しの成功や成長を自分のことのように感じて達成感を得ることが推し活の一側面のはずです。でも、当たり前ですが、推しがどんなに成功しても自分には何も返ってきませんし、自分は何も変わりません。自分が得るものなんて本当は何もないのです。

こんなにも非合理な行為なのに、多くの人がそれに自分を傾けている裏には、「現実の閉塞感」があるのだと思います。自分という存在はどうやってもそれほど大きな成功や幸福を得ることは難しいから、誰かに自分を託すことで、せめて疑似的な成功や幸福を味わいたい。そんな後ろ向きな、暗い暗い心根が推し活には垣間見えます。だから、僕は推し活が嫌いです。

自分にとって何の見返りもない、「推しのため」という行動原理で何かをするくらいなら、自分のためにその分何かをしてほしい。自分という存在を、自分の人生をあきらめないでほしい。自分に希望を持ってほしい。そう思うから、推し活、という言葉が嫌いです。

これから、僕が歌を作る中で、伝えていこうと思っていることのひとつは、「推すな」ということです。誰かを推す前に、自分を推してあげてほしい。そんなことを想いながら、歌を作っていこうと思います。

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